司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決

私は、著者の森炎(もりほのお)弁護士(元裁判官)と面識がある。私が司法修習生だったとき、青森で実務修習をさせていただいたが、そのときの青森地裁民事部の右陪席裁判官が森さんだったのだ。残念ながら、私の民事裁判修習が始まる直前に、ちょうど退官されたので、森さんから直接教えを受けたことはない。ただ、懇親会等でご一緒させていただいたときなどには、森さんから気楽に声をかけていただいたので、とてもフランクなイメージがある。また、たしか当時社交ダンスをされていて、すらっとしていて、髪を油で固められていて、とてもダンディーで格好良かった(今でもきっとダンディなのではないかと思う。)

その森さんが最近新書で刑事裁判の本を立て続けに出版していたので(幻冬舎新書『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか-変わりゆく死刑基準と国民感情』、幻冬舎新書『量刑相場 法の番人たちの暗黙ルール』)、少々気になっていた。この本は、新書ではなく単行本であるが、「司法殺人」というインパクトのある題名に惹かれて、手に取った次第である。


読後の感想としては、非常におもしろい、というかとても考えさせられた。

3つの事件が取り上げられているが、いずれも詳細に記録が検討されていて、非常に突っ込んだ内容であるが、とてもわかりやすく書けている。職業裁判官の考え方がリアルに述べられているし、第一発見者と犯人の区別、内部犯と外部犯の区別、自白の任意性、秘密の暴露、「疑わしきは罰せず」ということの本当の意味も良く書けていて、「目からうろこ」という感じがした。裁判員制が採用された今日、一般の人にも読んでもらいたい本であるが、「裁判員制」などと固いことを考えなくても、とても興味深い本であると感じると思う。

この本は3つの章に分かれている。

第1章では、昭和63年に起きた鶴見の夫婦強殺事件が扱われている。この事件は、既に最高裁で被告人の死刑が確定し、現在、再審請求中であるという。

森さんは、裁判で犯人と第一発見者を区別すること(すなわち、第一発見者が犯人であると疑われる場合、本当に犯人なのか、それとも単なる第一発見者なのかを裁判上見極めること)がいかに難しいことであるかを説明しつつ、この事件の記録を詳細に検討して、被告人を犯人であると断定する確定的な証拠はないのではないか、即ち、証拠上は、有罪とすることができないのではないかということを説得的に述べる。

そのうえで、職業裁判官にとっては、事件の証拠構造を把握することは容易であり、証拠からすると(有罪とまでは断定できない)合理的な疑いが残る場合であっても、冤罪になるリスクがあるとわかりつつ、有罪判決を宣告する面がある、というのだ。それは、裁判官といえども、国から公給をもらっている国家の権力機関の一部であり、広い意味では治安維持の任務を担っていることの宿命のようなものという。

元裁判官自身が述べていることであり、非常にリアリティーがある。


第2章では、昭和49年に起きた千葉・市原の両親殺し事件が取り扱われている。この事件は、中上健次の『蛇淫』という小説や、長谷川和彦監督の『青春の殺人者』という映画のモデルになったとのことであり、22歳になるある家の長男が、ある女性との付き合いを両親に反対され、両親を登山ナイフでめった突きにして殺害した(とみなされた)事件である。この事件の被告人は、公判で「父は母により殺され、母は第三者により殺された」という内容の冤罪の主張をしたが、捜査中の自白の中に「秘密の暴露」があったことが重視され、最高裁で死刑が確定している。

森さんが疑問を提起しているのは、「死刑」という結論についてである。というのは、同じ時期に起きた類似事件の金属バット両親殺害事件では、懲役13年という刑が宣告されていたからである。
森さんは、両事件の情状を分析して、金属バット両親殺害事件の被告人は、犯行を認め反省の情を示したから懲役13年であるのに対し、千葉・市原両親殺害事件では、冤罪を主張したから死刑になったという結論に達する。そして、このような量刑は、被告人が犯人(有罪)であるとの判断が絶対に正しいということを前提にして、「被告人は有罪であるにもかかわらず罪を争い、虚偽の申立てをして罪を免れようとしていたのであって、反省の情は皆無である」ということを反映させたものであるが、(裁判上有罪であっても)本当に被告人が犯人(有罪)であるか否かは最終的にはわからない(不可知である)のであり、間違っている可能性もあるし、このような量刑のやり方は、結局、冤罪などと言い出して国家権力に逆らうようなマネをしたら、ひどい目に合うぞ!と脅しているのと同じではないかと言うのである。


(私としては、「冤罪を訴えたが、裁判で有罪とされた場合、量刑判断において反省の情なしとして被告人の不利益にカウントされることは仕方ない」ように思うが、ただ、それは客観的に犯した罪のその当時における量刑の枠を基礎として行われるべきであり、千葉・市原両親殺害事件において、犯した罪自体が当時の基準で死刑にすべきではなかったのであれば、冤罪主張をしたからといって、死刑にするのはおかしいのかな、ということを感じる。)


第3章では、首都圏連続女性殺人事件が扱われる。これは昭和49年に起きた、女性を暴行し、殺害し、放火するという手口の首都圏連続女性殺人事件について、ある中年男性が逮捕され、一審の東京地裁で死刑の判決を受けたが、東京高裁では、逮捕後の過酷な取調べが問題視され、自白の任意性が否定されて無罪を言い渡され、検察も上告を断念して、逮捕から17年目にして無罪確定したという案件である。この被告人は、無罪判決後、冤罪の被害者としてマスコミにもてはやされたが、5年後に女児殺人未遂で逮捕され、さらに、この被告人の住む団地1階の部屋のベランダ側にある庭から、成人女性の頭部が見つかり、部屋の冷蔵庫からは女性の身体の一部が出てきて、近くの駐車場から女性の首なし焼死体が発見される、つまり、猟奇的殺人を犯していたというショッキングな展開を見せた事件である(この事件では、被告人は無期懲役となった。)。
憲法上、一事不再理の原則が定められているため、前の事件について無罪とした東京高裁判決が間違っていたかどうかは公には確定していないが、17年間も裁判で争ってきたこの被告人の弁護人自身が、この本の中で森さんのインタビューに答えて、あの判決は間違っていたと主張している。つまり、有罪とすべき被告人を無罪としてしまった逆冤罪事件なのである。

この事件について、森さんは、例によって、かなり詳細に検討して、東京高裁判決自体は、裁判としては瑕疵のないもので、裁判として間違いはなかった(もしくはやむを得なかった)という意見である。
しかし、何が間違っていたかというと、「疑わしきは罰せず」の原則は、被告人を積極的に無実と認定するのではなく、「無実未到達-無罪到達」の灰色のエリアについて消極的に無罪とするだけなのに、東京高裁の裁判官の訴訟指揮等(個人的にはマスコミの報道の影響も大きかったのではないだろうか。)から、あたかも被告人が無実であるかのような印象を与えてしまったことにあると言う。

非常に考えさせられる指摘である。


ちょっと内容を書きすぎてしまいましたが、この本にはもっと内容の濃いことがとてもわかりやすく書かれています。実務家にとっても、学生にとっても、一般市民にとっても、きっと興味深い本だと思いますので、是非是非おすすめします。