民法819条1項は、「父母が協議上の離婚をするときには、その協議で、その一方を親権者と定めなければならない。」と規定していて、未成年の子供がいる夫婦が離婚するときは、必ず夫又は妻のどちらか一方を親権者として定めなければなりません(単独親権制)。


しかし、欧米では、離婚後も両親が親権を持つ共同親権制が主流であり、単独親権制という制度が離婚にとって必然の制度であるわけではないのです。

では、どうして我が国は単独親権制度なのかというと、戦前の「家」制度の名残です。
少々古い文献で恐縮ですが、手元にある我妻榮・有泉亨著『民法3 親族法・相続法第3版』(昭和55年・有斐閣)の111頁~112頁から引用すると、



旧法では、「家を同じくする」父母のみが親権者になった。そして、夫婦が離婚すると、原則として一方がその家から去ことになっていて、しかもその場合、子はその者に従って「家」を出ない建前になっていたから、子と「家」を同じくする父または母、すなわち、その家から去らない方の父または母が親権者(旧877条)となり、監護者(旧812条)となるのが原則であった。新法は一方で、「家」の制度を廃止し、他方で、父母は共同で親権を行使すべきものとしたが、離婚した父母に親権の円満な共同行使を要求するのは困難なので、離婚に当たって、父母の一方を親権者と定める――いいかえれば他方の親権を失わせる――ことが必要となったのである。


ということです。

ただ、この単独親権制を採用した法の趣旨は、現在では妥当性を欠くのではないでしょうか?

上記の文献は、単独親権制を残した趣旨として、「離婚した父母に親権の円満な行使を要求するのは困難」と言い切っていますが、私は、離婚後も協力して子供を養育している元夫婦を知っています。元夫・元妻ともに再婚していて、特に仲が良いというわけではありませんが、元妻が引き取った子供については、養育費をきちんと支払い、月2回の面接交渉も行われ、ときに子供の教育問題などについて話し合いがもたれています。


私としては、(離婚の際に、両親のいずれかから、自分の子供に対する権利及び義務を奪う結果となる制度は人権侵害なのではないか?と思うのですが、それは価値観の問題であり決着がつかない問題でしょうから措いておいて)むしろ、このような単独親権制の根底にある家制度的な考え(離婚して家を出たら、子供に対する権利も義務も失う。自分と子供とは関係がなくなる。子供を引き取った親が子供の面倒をみるべきだ。むしろ自分はあまり口出しをすべきではない。)が、今の我が国で顕在化している離婚後の問題、つまり、離婚後に養育費と支払わなくなってしまう元夫が多いことや、子供を引き取った元妻・元夫が、元夫・元妻に子供と会うことを色々な理由を付けて認めないことに繋がっているのではないかという気がします。


このように言うと、元夫・元妻の対立が激しくて、共同親権がうまく行使できない場合はどうするのか?と言われそうですが、それは社会的な効用の比較の問題なのかな、と思います。
①離婚後も共同親権を原則として、うまくいかない場合のみ裁判所が介入して一方の親権に制限をかける制度と

②現状のように、単独親権しか認めない制度
の比較です。


一般に、離婚事件の70%~80%は協議により成立し、残り30%~20%程度に裁判所(調停・裁判)が関与することになりますが、裁判所に持ち込まれたとしても、多くは和解により解決していくので、最終手に判決まで行くのがわずか1%であると言われています。裁判所の関与の強弱はありますが、99%は当事者の話し合いにより解決しているのですから、離婚後に共同親権の問題でこじれるケースは意外に少なく、その処理にかかるコストそれほど心配する必要はないのではないでしょうか。

それに対して、もし単独親権制にすることが、養育費を払わない無責任な親や面接交渉を認めない意固地な親の基本的な考え方、および我が国の貧困な面接交渉制度の現状に繋がっているとすれば、その意識を改善できるメリットは無視できません。その意識が改善することにより、結果として、子供たちの幸せにつながります。

したがって、私としては、社会的効用としては①の共同親権制の方が大きいのでは?という気がしているのです。


それと、(あまり重要ではないかもしれませんが)離婚事件では、子供の親権を巡って激烈な争いが行われるケースも多いのですが、共同親権にすればそのようなケースの緩和にも役立つように思います。

みなさまはどのように思われるでしょうか?