2023年1月19日5:00配信 日経新聞電子版

「強制起訴は誰のために 刑罰以外の選択肢はないのか」との見出しの記事から

福島第1原発の事故を巡っては、民事裁判では「津波は予見できた」として旧経営陣の過失を認める判決も出ている。だが民事は「原告と被告のどちらかの主張が真実と思われるか」という争い。一方、国が国民に刑罰を科す刑事裁判は「疑わしきは被告人の利益に」が大原則で、「合理的な疑いを挟む余地がない程度」の立証が求められる。


(飛田コメント)
 これは編集委員の坂口祐一さんの論考なのですが、内容的にとても深く考えられていて、素晴らしいと思います。かなりの意訳も込めて内容を要約すると、
 検察審査会強制起訴制度は、検察の起訴権限に民意を反映させるために設けられたが、検察委員会で強制起訴となりやすい業務上過失致死罪については、裁判上、裁判員裁判ではなく、従来の裁判制度として裁かれるので、結局裁判所でははじかれる傾向がある。
 ただし、それが悪いと言っているわけではなくて、そもそも、原発や航空機、列車の運行システムという多くの部署や人が関わる事件を、民意で、結果責任的に、個人を裁いてしまうのは、経済・社会活動に悪影響となるのではないか。
 他方、裁判にすることで真相解明が期待できるという意見もあるが、個人の刑事責任を問う場の裁判では、検察と弁護側の対立構造となり、双方とも自己に不利益なことを言う必要もないから、逆に真相解明や再発防止策の策定にはつながらないのではないか。
 したがって、検察審査会には、審査段階で、専門家のサポートをしっかりして、有罪にできるだけの証拠があるかチェックさせるべきであるし、強制起訴の対象を、「証拠はあるが検察が起訴を見送った起訴猶予案件」にしぼることも考えられる。
 他方、この種の案件では、刑事裁判に過度に期待するのではなく、米国のように、議会や国家運輸安全委員会といった機関が強い権限で調査を行い、懲罰的な課徴金を課すなどの対応を行う制度もあるので、我が国でも政治・行政・司法による総合的な対策を考える方が適当ではないか?

 ところで、私が気になったのは、冒頭の引用箇所。日本の民事裁判でも、証明度という観点からは、理論的には、事実認定に「通常人が疑いを差し狭まない程度の高度の蓋然性」が要求されるのです(判例)。
 しかし、実際の民事裁判では「原告と被告のどちらの主張が真実と思われるか」という争いになっているのは(私の経験上)事実であるし、基本的には、民事裁判はそれで良いのではないかというのが私の意見です(注1)。
 しかし、問題もあって、
 1.民意に影響されやすい事件の場合、民意に流されやすくなる(ただし原発訴訟がそうであるというなどとは全く言うつもりはありません。事件の内容もよく知りませんので。)
 2.証拠が片方に偏在しているような案件の場合は、(特に一般的な筋とは違う主張をしようとする場合)証拠がない方が勝つのは困難となる。
と思っています。

 1については、刑事事件も民事に流されることはあるのですが、記事にも指摘されているとおり、民事の場合には、「疑わしきは被告人の利益に」の原則がないので、より流されやすくなります。
 2については、日本の民事裁判にはディスクロージャー(証拠開示)の制度がないということが問題なんですよね。
 ということで、色々と考えさせる良い論考だと思いました。

(注1)色々意見はあると思いますが、①民事裁判は、対等な当事者が主張と証拠を出し合って勝負するという建前の世界ですので、原告が80%確からしいと立証しない限り、原告敗訴となるという制度設計はおかしいと思うこと、②民事には、刑罰による著しい人権侵害はなく「疑わしきは被告人の利益に」の原則は妥当しないので、原告側に80%の立証を要求して、初めからハンディーをつけることを正当化する理屈が見出し難いこと、③民事事件の当事者には、警察・検察のような捜査権限はないので、提出できる証拠が限られており、80%確からしいというレベルまでいかないと裁判所が事実を認定できないとすると、そもそも裁判制度が成り立たないと思われること、④基本的には私人間の紛争なので、徹底的な真相究明をするまでコストをかけることはできないこと、などが理由です。